「竿敏」作・石鯛竿戦後、リールの普及に伴い、静岡県伊豆半島をはじめとして流行したのが磯のイシダイ釣り。東作系の竿師とともに、この新しい釣りのファンの要求に応え評判を得たのが竿敏(波多野敏郎、昭和34年没)だった。磯釣りのベテランの指導で東作は太身(長岡式)、竿敏は細身(三谷式)で粘りのある竿形を作ったというが、竿敏も次第に太身のものを作るようになったという。
さて本品は、三本半継ぎのオーソドックスタイプ。特別に細身というほどではないので、昭和20年代後半か30年代初期の作品と思われる。大物竿であってもすっきりとした作風が特徴である。
本品のほか、細身三本継ぎの初期タイプも所蔵。
名匠の作品
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「源竿師」作・ヘラ竿紀州・和歌山県はヘラ竿の穂持ち(先から二番目)の素材として欠かせない高野竹の自生地であるため、地場産業としてヘラ竿作りが現在も盛んである。
源竿師(故山田岩義)は紀州ヘラ竿の最高峰と言われた人。大阪で修業した後に帰郷し独立。当初は竿春銘を使っていたが、弟子の坂部博に銘を譲り源竿師を名乗り、数から品質重視の竿作りに転向。関西はもちろん、昭和30年ごろからヘラブナ釣りがブームとなっていた関東でも好評を得るようになった。
写真の本品は、源竿師の竿が本格的に関東で流通するようになった昭和30年代初期のもので、段巻きの四本継ぎ、全長十三尺(3.9メートル)。風格の感じられるオーソドックスな作品である。
名匠の作品
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「東俊」作・布袋竹印龍継ぎマブナ竿東俊(岡本俊夫)も四代目東作の弟子の一人。昭和10年に独立というから、亡くなるまで50年余も竿を作り続けた。アユ竿、ヤマメ竿、ヤマベ竿などを得意とし、戦後の名人の一人といって過言ではない。また先年亡くなった俊行作(伊田利行)の師匠でもある。
さて、写真の本品は布袋竹印龍継ぎのマブナ竿。写真右側3本のうちの中央の糸巻きの付いているのが先から6番目で、右側3番目は替手元。6番目から先は中通しという珍しい竿形であることから、細流のヅキ釣りやミャク釣り用に作られたものかも知れない。
注目して頂きたいのが節揃い。布袋竹といえども、一尺元三節揃いは見事というほかない。
名匠の作品
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「竿忠」作・笛巻きヤマベ竿・二間半(4.5メートル)江戸時代末期、二代目東作のもとで修業し、後に独立して明治時代初~中期に和竿作りで活躍したのが釣音・中根音吉。その釣音の長男が明治三名人の一人として著名の初代竿忠・中根忠吉。
さて写真の笛巻き竿は一尺五寸元(45センチ)十三本継ぎ二本仕舞い、二間半。大正から昭和10年代までの作品と思われる。現在活躍中の四代目・中根喜三郎氏の作品でないことは確かだが、何代目の作かは断定しかねる。が、おそらく二代目(仁三郎)か三代目(音吉)によるものと思われ、それも京都に出向いて笛巻き竿の技術を学び比較的多く作ったという二代目の作の可能性が高い。
名匠の作品
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四代・六代目「東作」合作中通しハゼ竿洗練された江戸前竿の典型といえるのが本品。
宗家東作が手がけたことを示す角印・東作と丸に三の焼き印があることから四代目東作(松本政次郎)と六代目東作(松本三郎氏)の合作といわれている。しかし、四代目在命中に襲名前の六代目が作った竿といった方が正確かもしれない。
ちなみに、六代目東作・松本三郎氏は四代目の三男で、五代目は長男の故松本栄一氏(子息が東作本店店主・耕平氏)。
さて、この作品は布袋竹印龍継ぎ二間(3.6メートル)で、手元は布袋竹根掘りの磨き、糸巻きは象牙製。宗家ならではの気品のある仕上がりで、昭和40年前後の作品。負荷3号程度。
名匠の作品
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「東吉」作・ドブ竿四代目東作の多くの高名の弟子のうち、特にアユ竿作りの第一人者として知られるのが東吉(とうきち・宇田川吉太郎)。師匠と共にアユ竿を研究、洗練させ、軽くて調子のいい東京式アユ竿を確立。その後、多くの竿師が東吉のアユ竿を手本にしたという。
さて、本品は四尺元、八本継ぎ、四間一尺(7.5メートル)のドブ竿。塗りは普通の透き塗りだが、元三番までの淡竹の節揃い、布袋竹と間違えそうな節込みの矢竹穂先など、素材へのこだわりは東吉ならでは。昭和32年没のため、推定製作年代は昭和20年代としているが、口金、石突き金具が使われていないことから、金属統制の行われた戦時中の作品かもしれない。
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